こんにちは。
心理とスピリチュアルの専門家 井上です。
さて、今回のメンバーズでは
少し哲学的でスピリチュアルな
話しをしていきましょう。
この話は
あまりにスケールが多いので、
変わらず参考程度に
聞いておいてください。
何度も言っていますが、
あくまであなたの霊性を
刺激する内容であり。
これ自体を
理解しようとか、
受け入れようとする必要は
ありません。
井上さんは、
そんなことを考えているんだな、
程度に聞いていてください。
今回お話しするのは、
「命が存在する意味」についてです。
ちょっと漠然とした
テーマではありますが、
自分の感覚を整理する意味で、
徒然なるままに書いていきたいと思います。
命が存在する意味
先日お話しした
同居の母の死から、
40日ほどが経過し、
来週には四十九日を迎える予定です。
四十九日の法要は、
お世話になっているお寺さんで、
お経をあげていただいて。
その後に
家の近くの会津若松市の
納骨堂へお骨を修め。
お昼には、
自宅に兄妹家族と、
母の兄弟夫婦が数名集まり、
昼食を取る予定です。
今回の母の葬儀や法要は
可能な限り家族と近しい親戚で
済ませようと思っています。
ですから、
その意味では、
多くの準備も必要なく、
どこか粛々と法要が進んでいる感じです。
家には
母を偲ぶ祭壇があり、
昨日も古い友達が
焼香を上げに来てくれました。
そんな姿を見ながら、
四十九日の法要の準備をしていると、
自然ともうお別れなんだなと、
感じてきます。
四十九日は、
亡くなった霊的存在が、
現世での未練を清算するための
猶予期間とも言えるものですが。
今回の母の死では、
家族が四十九日を掛けて、
気持ちを整理する期間でもあると
なおさら感じます。
父の時には
はじめての葬儀で、
葬儀の間も、四十九日までも、
色々な準備で大変でした。
今振り返れば、
何が何だかわからないまま
終わってしまったように
感じる期間でした。
それに比べたら、
今回はコロナのことも在り、
本当に縮小した葬儀でしたが、
帰ってそれが良かったように思います。
本来の、
死者を弔い見送る葬儀として
家族でゆっくりと時間を過ごせたと
感じるのです。
本当に良い法要となりました。
そんな母が
高校時代から
親しくしていた友人が、
昨日も焼香に来てくれました。
するとその方が、
毎週水曜日に成ると、
ある夢を見るというのです。
それは母と共に
車でごみ処理場へと行き、
大量のごみを捨ててくる夢です。
毎週水曜日と言えば、
私たちがお休みで家に居て、
母の私物を整理している日です。
実際に何回か、
ごみ処理場に行って、
母の私物を処分していた
日でもあります。
ですから、
そんな話を聞くと、
母も自分で天国にいく準備を
しているのかなと微笑ましく成りました。
今では、
母が使っていた部屋も、
四十九日で使えるように、
綺麗に整理されました。
あと残っているのは、
母が嫁入り道具として持てきた
古い箪笥ぐらいです。
もう50年以上
使い続けた箪笥ですから、
あちらこちらが痛んでおり、
使い続けることも出来ません。
これだけは最後まで残して、
四十九日を終えてから、
処分しようと思っています。
押入れを埋めるように、
大量に残っていた物も、
殆どが整理されてスッキリしました。
そんな風に、
母の部屋や使っていたものを
片付けていると。
私たちの人生って
何なんだろうと思ったりします。
本質的に
どんな意味があるのだろうと
思うのです。
私はこれまでにも
前世療法を通して、
様々な人の転生を観てきました。
そしてオーラ診断でも
その人が霊的存在として
繰り返してきた転生の様子を
みてきました。
そして私自身も
自ら体外離脱をして
自分が霊的な存在で在ることを
実感してきました。
ですから、
人が転生することや、
死後の世界があることを知っており、
そこに疑いなどはありません。
人とは本来、
エネルギーとしての霊的な存在で在り、
幾度となく転生を繰り返すことを
知っているのです。
そんな私が、
母の死を通して、
その後の整理をしていると、
こんな風に思うのです。
人の人生とは
とても儚い物であり、
後に何も残らない物なんだなと。
もちろん、
家族や家は残りますし。
子や孫を通して
命としての繋がりも
残るとは言えるでしょう。
でもそれは、
その人の人生が
残る訳ではありません。
新たな命を生きる、
子や孫の人生として残るのです。
亡くなった人の
存在そのものは、
死と共に薄れていき、
消えていくものでもあります。
そしてそれは、
1世代、2世代まで
残る程度の記憶であり、
いずれ消えていくものでしょう。
そう思うと、
改めて私たちの命には
どんな意味があるのだろうと
思うのです。
何のために
産まれてきて、
消えていくのだろうと。
例えば何かを成し遂げ、
歴史にその名前を刻んでも、
それはやはり時間と共に
忘れられていきます。
そもそも、
私たち人類の歴史自他が、
いずれは終わりを迎え、
消え去っていくものだと思うのです。
それはもちろん、
近しい未来ではなく、
何千年後、何十万年後も
先ことかもしれません。
でもそれは、
何億年という地球の時間の中で、
瞬きのように過ぎていく
人類としての歴史でしかないのです。
そしてさらには
そんな地球の歴史でさえ、
何百億年という宇宙の営みの
ほんの一部でしかありません。
私たちは、
そんな広大な時間と空間の
ほんの一瞬の輝きのような
人生を生きているのです。
極端なことを言えば、
私たちのこの世界は、
宇宙の始まりである無から生まれて。
宇宙の終わりである
無へと帰っていきます。
物質的な命ある存在としては、
1人の人が送る人生と同じように。
宇宙で生まれた生命として、
宇宙の終わりと共に、
いずれ終りを迎えるのです。
私たちの命の灯を
そんなそんな風に
宇宙の一瞬の輝きだと捉えると。
私たちの人生そのものが、
この世界に与える影響が
殆どないことが解ります。
そう、私たちは
この世界に何かを残すために
生きているのではないと
思うのです。
何かを成し遂げるために、
生きているのでは
ないと感じるのです。
では何のために
命を得て人として
人生を歩んでいるのか。
それはひとえに
今この瞬間に生きて、
体験し経験を積むこと自体に
意味があるのでしょう。
私たちが
そんな体験から感じること、
味わう思いに意味があるのだと
思うのです。
なので私は、
私たち生命体とは、
神なる宇宙から別れた魂が。
霊的存在としての
転生を繰り返しながら。
各々が個性を持って、
この宇宙での命を体験し。
そしていずれは、
元の神なる存在へと
統合していく存在だと考えています。
宇宙がある一点から始まり。
そして膨張して
個性的な世界を作り出し。
いずれは縮小して統合され、
また一点に戻っていくように。
そんな時間と空間の狭間で、
命の多様性を通して、
様々な経験や体験をしていく。
命そのものの生には、
大きな目的や目標などの
ゴールは無いのかもしれない。
でも
その過程にこそ意味があり、
喜びや充実感、悲しみや怒りなどの
体験が在るのです。
ですから、
極論を言ってしまえば、
私たちが生きるという
体験にこそ価値があると思のです。
それ以外のものは、
全て儚く消えていく、
束の間のものでしかありません。
以前に
借り物の人生という記事を
書きましたが。
やはり、
この世界の全ては、
あくまでその体験を味わうための
借り物でしかなく。
大切なことは
その体験で何を感じ、
何を知った(悟った)のかだと思います。
ですからそのためにも、
今この瞬間に生きれるように
なることが大切であり。
それこそが、
命ある存在として
この人生を歩んでいく上での、
理想ではないかと思うのです。